2022年5月
なんやかんや
実父のことで彦根市立病院・・・
5階から見る景色は素晴らしい・・・
この場所で喫煙・・信じられへん~
帰宅して今週末などの確認。この法人化・・・わが村の安政年間あたりからからなかったことへの取り組み。歴史的転換期に立ち会えることに興奮しています
彦根市内護国神社付近の様子。観光客も戻りつつあります。また、嬉しい話が舞い込んで来まして私の連中(お宮さんを世話する同世代の集まり)の方が再就職なされたということで喜んでいます。詳しくは話せないですが元々の彼の地元守山だけに私自身も嬉しくって仕方ないです
ちょこまか
昨日は実父が入院するということで病院での手続き、説明など受けました。この説明が結構長引きその関係で店の開店がぎりぎりになってしまい5時半ジャストに来られたお客さんを待たすことになり申し訳なかったです
その病室に父とは入れるのはその日と手術当日のみでなかなか連絡取れないことにもどかしささえ感じました。で、もっと驚いたのはその病室(4人)に15年ほど前までお世話になった飲食店の大将が入院しておられたことでした
これは私の実家近くです。その大将もこのあたりからちょっと行ったところに店を構えておられました。結婚したころはよく食べにも納品もさせていただいておりましたが引退され息子さんにバトンタッチされたのを機に食べに寄せていただくだけにしました
これは東近江市は川南町の麦畑の様子。とある方のところへどら焼きを届けに行きました。
農協から刈り取りについて、かなり赤らんできたところでこの乾燥施設で今度の土日・・受けませんとのこと。すなわち6月10~11日まで待つようにとの通達来たが後2週間も待っている間に倒れはしないかと思っています。
芹川沿いを車で走らせるとこの近くに住んでいた多くの友人知人達、今も元気かなあ~などと思います・・が、そうした事懐かしがっている割にはあまり同窓会に出てみようとは思わないんです。同窓会幹事の熱心な友人から誘われたが仕事の関係で(これほんと)やんわり断ったら「なんとか都合付けられないのか?」「お前さん、いわゆる食わず嫌いなん違うか?」と言われはしたが会いたい人には今も会えるし高校の友人などいろんなタイミングで会えたり出来ているのでへんな言い方したら「間に合ってます」と言いたくなったりします。もちろん高校の旧友に会えたのは「ヤン(東南アジアの人ではない)」のおかげだと今も感謝しています
この信号越えたあたりを左に曲がったらスナックとかがいっぱいあります。中学の頃友人〇〇(ニックネームでもわかってしまうので伏せます)君が「昨日お母さんと二人で家に帰らない父さんを迎えに行ったら扉開けお父さんがお母さんをたたいたんだ」カッコ悪かったお父さんがした行為を許せないと語ってくれたことがありました。それから20年ほど過ぎたある夜、スナックで偶然彼に会い懐かしいねと話していて「次行こうか?実は(小指立てて)仲良くしてる子がいる店紹介するわ」と店出たら彼の奥さんが店の前にいて奥さん見た彼「ぼけ~っ!こんなとこに来るな!」・・やってること親子で同じじゃないかと内心呆れていました。似た者親子ってそういうとこ似るのかなあ~
いつの頃だろう
彦根市内日夏町に文字通り昭和感満載の店があります。
よく「作られた昭和」のお店などありますがここは「昭和そのもの」です
黒板に営業日など書かれてあります
駄菓子、ちょっとした昭和時代に遊んだことあるもの(ストローで膨らます風船など)が並べてありました
もちろん単なる古いものがあるだけかもしれませんが商品、きちんと整列したチェーン展開のの店にはない「あじ」があります
ポスターや看板などもなんとなく40~50年ほど前見たことありそうなものです。このお店、50年ほど前営業しておられやめられましたが7年ほど前からこうしたお店とアートなどの展示されたりなされるようになったそうです。おかっぱ頭風の幼ない子(盛ってないです。ほんとに来店した)が駄菓子買って帰えられたその姿見て55年ほど前いとこの「まみちゃん」と駄菓子買いに行った遠い日を思い出しました
ヴァンゲリスさん
去る5月17日に音楽家のヴァンゲリスさんが亡くなられました。映画「炎のランナー」「南極物語」の曲など私の若い頃よく聞いてたので寂しい限りです
南極物語は文字通り南極での話なので厳寒のイメージなのですが私個人にとってはこうしたちょっと暑い日の遠い思い出と重なります。よく車の「カセット」に入れてこの曲聞いていた頃、その時は何気なく聞いていても今となりゃ当時のことを鮮明に思い出させてくれます・・・
配達の前に水を
配達に行く前に田んぼに水が適正に入っているか見に行きました。
あんばいよく入っていました
こうしたて蛇口をひねるように農業用水を出します。この水管理、普段はお義父さんがして下さっているので助かります
来月には麦刈り。ニュースではウクライナも麦刈りしておられました。砲弾が着弾し穴が空いた圃場。刈取も大変だと思いますし、私達はそういった危険を感じずに刈取出来るのも幸せだなあ~と思いました
灯籠は石が積み上がっているだけなので地震などがあるとこけたりと危険です。小学校の頃友達がふざけて灯籠に乗った拍子に倒れてけがし(軽かった)、翌日先生がふざけないようにと朝の朝礼で話しておられたのを思い出しました
道の駅にあるこうしたお店、トラック関係の方は道の駅の駐車場が広いので止めやすく、またこうしたお店でゆっくり食事が出来るので助かると話しておられました
トヨタハイエースの冷凍車(冷蔵車の時もある)。他メーカーにもよく似たのがありますがこのメーカーのが一番です。私の前いた会社にもあり乗っていました。その会社に入社した頃は冷凍車でも冷蔵車でもない保冷車に乗っていていすゞの「ファスター」というトラックでした。この車の利点(?)はベンチシートだったのでゆっくり昼寝が出来たことくらいでした。
写真見ているだけなら八幡工業か彦根工業か分らないです。ちなみにここは彦根工業高校で私の友人もこの学校に多く進学していました。ここで学んだことをいかして通信関係、土木関係、建築関係、電気関係の会社などに就職し第一線で活躍してこられました。そうした友人達も定年の話しなどするようになりましたが「技術」を持っている彼らはなお10年くらい会社にいてほしいなど各会社にとってなくてはならない存在とのことです。
今年は稲枝のこの隧道も能登川のも開通しました。そうしたいわゆる「オープン」もあれば彦根のスイスさんのように50年の歴史に幕を下ろされる店もあったりで寂しい話もあったりします。多分長浜、びわ、木之本方面の方ですと「レストランびわ」の48年の歴史に幕を・・が寂しい話なのではないでしょうか。ふたつの店にはそれぞれ思い出があり、思い出に振り返るときにその場所がないというのも寂しいものです
6月に向けて
ちょっと早いですがいろんな事で6月に向けた段取りなどし始めました
玉葱も十分確保できたので各仕込みには有難いことです
お寺の回覧板をお隣へ。我が寺の住職は門徒から尊敬されていて法話なども拝聴していると何だかパワーを貰った気持ちになりますし、感涙にむせぶ方もいらっしゃるのでは・・・。私としては阿弥陀さん、親鸞さんの次に偉い方と思っていて蓮如さんよりも我が住職の方が偉いと思っています
6月には麦刈りがありますが、先日もお話ししていたようコンバイン作業が身体的に出来ないので昨日組合長さんに交代してほしいと申出てきました
とあるスーパー、場所など申せませんので空に向けて風景を写しました。そこでもの凄く久しぶりな方とお会いし、近況報告などして懐かしい話しに花を咲かせました。その方はなかなかの人でスナック経営しておられた頃当時流行の「〇ョニー〇ォーカー」の黒の中身を〇リスと取り替え平気で〇二黒と称して客に出しておられました。私は話していて楽しい人なんですが信用していないです。今日も買い物しておられましたが何だか怪しい物を買ってるようにしか思えず「またなんか企んでるんちゃう?」と冗談で言ったら向こうも「わかる?」と笑いながら答えてくれました。もちろん引退されて長いので家用の買い物とは思うんだけどなあ~
火曜日の間に
定休日の今日の間にしておかなきゃいけないこと盛りだくさんで通常日の方が楽に感じるときがあります
入り口のこの矢印・・・妙に面白いです
この交差点の歩道なども広げられましたね
まずはとある書類提出のため商工会へ。
朝からいろんな物を仕込んだりしていたので打合せの途中眠くて眠くて・・・
このあたりに高校の同級生「しょうちゃん」の家があり数度寄せて頂いたことがあります。記憶間違っていたらごめんなさいですがお兄さんはホンダの往年の名車「S600」に乗っておられました
河瀬駅で見た貨物列車。一度この機関車内を見せて貰ったことがありました。この機関車の大半がモーターだったです。また同じ操縦席が前後にあり切り替えも楽そうだなあ~と思っていました。
実父の29日入院に合わせ打合せのため彦根へ。日曜と言う事で救急の入り口から入り手続きとなります。この近くに住む叔母に「お父さんが日曜に・・・」と説明に。ここから角日おきにお総菜など作ったからと父の元へ運んで下さいますのでお礼もかねて寄せて頂きました。
彦根市内旧町名「東新町」。新町とは違います。このあたり昭和の時代はいろんなお店があり下校時はそうした店を通って帰るのも楽しかったです。また昭和55年前後はこのあたりには8店舗ほど喫茶店があり大学生、商店主の人達で賑やかでした。先日得意先の大将とその話していたとき少しだけ世代が違ったなあ~と感じることがありました。学生街の喫茶店と言う歌なんて懐かしいねと言われ、もちろん知ってはいましたがリリースされた1972年は私は11歳だったので詳しくは分らなかったんです。その分石川ひとみの「まちぶせ」(1981年)とか同年に出された柏原芳恵の「ハローグッバイ」の話すると「あ~あったわな~」で終わってしまったりします。大将昭和24年生まれの方ですが喫茶が全盛の頃を懐かしむのは共通でした
青天ですな
気持ちのよい天気ですね
仕入れ先の愛知川へ。中山道に向け右折、遙か昔に宿場があったことから宿だった後に料亭、甘味処(和菓子屋さん)などが多く感じられます。
10年ほど前、京都の知り合いがこの中山道を使って歩いて東京まで歩かれた事がありました。その方が言うには京都発守山泊ってな言い方があったらしく守山での宿泊はとてもよかったとの事で、この愛知川では美味しい食事が出来たとの事でした。でも歩いて中山道を・・・凄いなあ~
で、今頃ここの信用金庫がなくなっていたことに気づきました
この仕立屋さんは良い腕をお持ちで大阪で修行してこちらに来られ長く営業されています。
どうしてもこの屋号見ると広島だの岡山だので笑いを取っていたコンビを思い出してしまいます
いよいよ麦刈りのシーズンなのですが、私の出役の労働内容がコンバイン操縦。実は2年前に心筋梗塞煩ってから車の運転も長く出来ずどちら様かに変わって貰えないだろうかと思っています。今日か明日にでも組合長さんにどちら参加に変わって貰えるよう願い出ようと思っています。
昨日は彦根
昨日は実父を彦根市立病院に・・・
病院に向かう途中見かける車、子供が幼い頃「はたらく自動車」ってな図鑑見せていたことを思い出しました。
トラックに地元の紹介というか宣伝しているのを見かけますね。また面白いこと書いているトラックもあっありです。「最大積載量は社長の気持ち次第」などもありました。また、「バックしますご注意下さい」のアナウンスをどうやって変えたのか「バックしますっ!のいて(どいてと言う意味方言)のください」とか左折するとき「会社・・左まいです」・・・
こうした軽バンで仕事道具をコンパクトに収め、活躍しておられるのもあったりです
我々の業界ではこの車をよく見かけます。これは1トン車ですが2トン冷凍トラック、平成一桁の頃と違い凄い価格になっています。2トンクラスまでなると走行距離も50万キロくらいまでは平気で長持ちしますし、走行の寿命平均100万キロなどとトラックディーラーに勤めておられた方が言っておられました。
彦根市立病院。最近ここ、八幡、能登川、滋賀医大とまるでローテーションのように行くことが増え、今回2階での診察なのに八幡と勘違いし1階の突き当たりに向かってしまい実父から「どこへ行くんや?」と言われてしまいました
市立病院から見る景色。これと言って変哲もないです。
診察終えての帰りお城を通り抜けて帰りました。この正面にある建物、昭和59年頃「市民ギャラリー」といういろんな物(絵画等)展示できる施設を作ることになりIと言う地場ゼネコンのもと空調設備据え付けのため現場に入っていました。問題はパッケージエアコンの室外機、据え付ける場所が
今の施設を逆から見た写真です。その場所がこちらに向かっている車の向こう側のお堀のあたりになるので景観もそうですがどうして運ぶかが問題になったんです。工事の会議の場で人力で運ぼうと言うことになり室外機を台に乗せ御神輿のように大勢の体育会系の大学生に担いでお堀を縦断して貰ってはなどとの話になり「この人ら本気でそんなこと考えてるのか?」と思っていました。結局その話は流れ、重量物運送専門業者に頼んだのですがそのことをK滋重量(当時の社名)専務さんにこんな話が持ち上がったんですよと話したら腹抱えて笑われ「もしつまずいたりして室外機お堀に落としたらどうするつもりやったんやろな~」と呆れておられました
焼肉屋さん、若い頃はよく行っていました。ショッキングなことに2日前病院でお医者さんから塩分などの制限に加え糖質制限も加わり今までグレープフルーツ、納豆などに制限かけられていたのに加え炭水化物なども・・・また脂っこい物はダメでホルモン焼きなどもってのほかでホルモン焼き食いながらビールなど飲んでいたものなら早死にしますよとまで言われ落ち込んでいます。そう言われれば言われるほど焼き肉屋さんの前通るたびに食いて~な~と思ってしまいます。日本酒も糖分がと体のこと思い「二階堂」をたしなんでいます。私が服用している薬の副作用で夜によく足がつるのですが、飲み過ぎた夜つる足はとても辛いです。でも、あの足がつったような感覚が胸のあたりで起こった「急性心筋梗塞」のあの苦しみから思えばましですし、足がつって死んだ人はいないが私の症状は40%の人が死んでいると聞いていますのであんなことにならないように「食うな」と言われればそうしたいと思います
んで・・・
続きなんですが、八幡の病院で心配事が・・・と、言いますのもこの春から循環器科の先生が異動され、新しく来られた先生・・・最初に「狭心症ですね」と言われたんですがちゃいまっせ~でも何度も検診受けているうちに数字で自分の体の状況把握できるようになったので具合悪くなったりしない限りその数字を良好にもって行く努力をしようと思いました
この工場の食堂には大変お世話になりました。食堂のIと言う女性の主任さんにはタケダのいの一番など沢山買って頂いたことがあります。よく当時の同僚「きりちゃん」と売り込みかけたことが懐かしく思い出されます
現「メフォス」という給食委託会社がまだ「大日本給食」と呼ばれていた頃からこの工場にはよく出入りさえて頂いていました。ちなみにこの大日本給食ってなネーミングは戦前をイメージなされる方も多いかと思いますが会社そのものは1962年創業です
稲枝にあるおそば屋さんは昭和時代にはここで運営しておられました
今の社名は詳しく分らないですが当時「恵和商工」と呼ばれていた時代ここの食堂に出入りさせて貰ってました。先ほどのプラスチック工場もそうですしロッテにせよここの会社にせよすべて「きりちゃん」がらみでした。いつも思い出も何もかも共有していた彼にまた会いたいです